らすのが一番ラクな商

  という名前は、たいそう珍しい。——この名前のおかげで、オレはどんなに迷惑したかわからないというが、私もこんな名前をつけられたら、自分の親父《おやじ》を恨みたくなっただろう。


  しかし、この三浦の嘆きは多少とも裏返しになった誇りのようなものかもしれない。すくなくとも軍人の息子である私からみると、こういう凝《こ》りに凝った命名をする父親のいる家庭には、いろいろの意味で自由な空気が吹きぬけていただろうな、という気がするのである。——「自由な空気」とは一體どういうものか、と訊《き》かれてもこまる。ひとくちにいって、それは戦前から「戦後」の気風をもった家庭ということだろうか。つまり三浦は二代目の文化人なのだ。


  戦前、「セルパン」という一種の文化総合誌があった。春山行夫氏や、亡《な》くなった十返肇《とがえりはじめ》氏が、編集に當っていた。型もページ數も、いまの「風景」ぐらいだが、本屋でオマケにくれるようなものではなく、堂々と定価十センで駅の売店などにもならんでいたから、內容は「風景」などとちがって、もっとドぎつく、活気もあって、いまの「週刊新潮」のタウン欄だけを集めたら、あんな雑誌になるのかもしれない。——三浦のお父さんは、その「セルパン」の初代の編集長だった。しかし、そういう具體的なことは、三浦の口からは一度もきいたことがないので、私は彼の結婚式によばれるまで、ちっとも知らなかった。私がはじめて高円寺《こうえんじ》にあった三浦の家へ遊びに行ったとき、廊下の隅《すみ》の本棚《ほんだな》に三浦のお父さんの名宛《なあて》の署名本が日にさらされたまま何十冊となく無造作に積み上げられてあるのを、めずらしそうに眺《なが》めていると、三浦はいくぶんイラ立たしげに、


  「よかったら、そんなもの、どれでも持ってってくれよ。始末にこまるんだ」


  と言った。私は早速《さつそく》、堀口大學訳のシュペルヴィエール短編集など、何冊かを貰《もら》って行くことにしたが、みんな紙質も裝丁も立派な本ばかりなので、本當に貰ってもいいものかどうか、何度も訊《き》きかえさずにはいられなかった。すると三浦は、「かまわないったら、かまわないんだよ」と、どなるように言うのである。


  要するに、息子にとって父親の職業というのは、一種の恥部なのかもしれない。私にしたって、もし家へ遊びにやってきた友達が、私の父の古い階級章だのサーベルだのに、もの欲しげな興味を示したりしたら、やはりこのときの三浦と同じ顔つきになっただろう。そういうふうに翻訳して考えると、三浦の気持もわからないことはない。


  「ものを書いて売ってくらすやつも、それを買って商売するやつも、世の中で一番どうしようもない連中だぜ」


  三浦がこんなことを言うのは、たぶん私に対するアテコスリもあったかもしれない。そのころ私は勤めをやめて、イチかバチか原稿料だけでくらしはじめようとしていたから。しかし、それと同時に浮草稼業《うきくさかぎよう》への嫌悪《けんお》とか不安とかいったものが、よほど深く身にこたえているのだろうかとも思った。それなら何で三浦はもっと他の職業を選ばないのだろう——、そう訊くと、三浦は簡単に言いかえした。


  「それは、ものを書いてくらすのが一番ラクな商売だからさ」


  どっちにしても三浦は、子供のときから文筆業者のウラおもてを見ながら育った。それだけ、彼は私たちのなかで誰よりも早くから文壇的生活意識を身につけていたはずだ。私が三浦とつきあい出したのは、ある日、突然、彼から會見を申しこまれてきたからだ。そのころ私は、まだ短篇小説を二つほど発表したばかりだったが、その一つは三浦と並んで文芸雑誌の新人特集號に出たものだったから、私も三浦のことは多少気にしていて、早速、申しこみに応じて、日比穀《ひびや》の喫茶店で落ち合うことにした。——といっても、顔も知らない同士が街で出會うためには、何かの目印が必要だ、それで私は「セビロの襟《えり》に赤い花、それが恥ずかしければ掌《てのひら》大の木の葉をつけて行くように」と提案した。こんなことを言い出したのは、私自身も未知の新人作家と會うことに、大いに好奇心をもやし、昂奮《こうふん》していたからである。


  當時、私はレナウンという婦人向きの

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