栄太郎の「これも栄養

  数えてみると三十年の昔にもなるこの日のことは、そのときのディナーのメンバーがもう二人だけしか残されてはいない今日になっても私の脳裡から離れない。思えば私はローストビーフとは、幸せな出会いかたをしたものである。それから——私はアメリカのさまざまな家庭でローストビーフを食べることになったけれども、一度としてその単調な味わいとされる味わいに泣けてくるような経験をしたことはなかった。それぞれが招かれた家庭と、その時の持つ意味を象徴した豊かな味わいをもって、人の世の善意を伝えていた。しかし、石垣栄太郎のそれのように、大らかで豊潤なるものには未だ出会っていないし、私の傑作であれほどのものが出来あがったためしも、残念なことに今までのところないようだ。私の人柄のまだまだ至らぬせいなのだと思う。


  「栄太郎さんのローストビーフ」は、わが家の研究の対象になった。高校生だった私が、目と鼻と舌の全神経をひとつの肉塊に向け、集中させて焼きあげると、それは私を裏切らなかった。香ばしく焦げた表面に覆われた内部は、どこを切っても、ジュッと肉汁のにじみ出る桃色の断面が出てくるのだった。自信が増すにつれ、レア好きの私のローストは、桃色から薔薇色に変ってしまった。


  時代は移り、昨日の高校生から今日の中年主婦になった私は、栄太郎の命日に、この世にひとり残されて久しい綾子夫人のために、ローストを作る時がある。オーヴンの扉を開閉するごとに、栄太郎の「これも栄養の方でしょうね。料理というほど手のかかるものじゃない」というあの時の言葉が、向うの部屋で聞えるように思う。


  なるほど私は、年とともに目も鼻も舌も、神経も使わずにローストを焼くようになった。使うものは、そうした個人の感覚とは全く関係のない、オーヴン温度計と時計だけだ。薔薇色のローストのためには、牛肉一ポンドにつき十八分、摂氏一七五度に熱したオーヴンで焼けばよい。時間と温度を守ったものであれば、こと色あいに関するかぎり、玄人はだしだ。あとは各自の好みで、にんにくでも、粒胡椒でも、どんな芳香植物でもまぶせばよい。また、表面においしい焦げ目をつけたい時には、粉をあっさりとふりかける。これは今ではオールドファッションだというが、オールドファッションはしばしば人間の帰巣本能を満たしてくれる。


  つまり、塩と好みのスパイスをなすりつけて焼く。それだけで、それが最高に複雑な過程を経た料理と並べて負けないのだから、これほどうれしいことはない。グレイヴィも難しいことはない。したたり落ちる赤い肉汁に、料理人の個性となるものを加えて細工をするだけだ。ジョン・ラスキンの「料理とは……イギリス的徹底性、フランス的巧みさ、そしてアラビア的もてなしのことである」という、そのイギリス的徹底性こそ、ローストビーフの必要とする要素なのである。


  私はいつの間にか吉田健一の著書の中の一節を思い出す。「英国の料理がフランスとくらべて簡単なのは、少なくとも英国の方に良質の材料があったからに違いない。例えば牛肉をただ焼いただけが英国の典型的な料理になっているのは、それ以上のことをしては勿体ない牛が最近までいたからであり……」確かにそれほどの素材があったのなら、料理法も簡単であったわけだと思ってみる。簡単な料理、基本と呼ばれるような料理だからこそ、そこにつけ足す僅かのスパイス、グレイヴィの加減で、個人のパーソナリティが現れることになる。言ってみれば、ローストビーフは素人料理の決定版なのだ。


  酒仙とも、日本における最高のエピキュールとも言われた吉田健一の、良い材料に手を加えては勿体ないとする心を読みとって、何故かほっとする私は、何度か父に連れて行かれた料理屋で聞いた、高らかに個性的に声を上げてはうちひくこの人の笑い方を耳の内に聞くのである。

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